私にしか出来ない事と私でもできる事

私にしか出来ない事と私でもできる事

私にしか出来ない事に力を注ぐのが、一番の自己肯定なんだけど、

それが何かがわからないから、片っ端から取り組んでみる。

それでいいけど、それじゃダメ

私にしか出来ない事

例えば、家庭科でスカートを作る授業があるとして

アイデアを出すのが得意な人は、どんなスカートにしたいか妄想するし

デザインを絵にできる人は、それを書き出すし

生地が好きな人は、どんな素材を使うか選ぶし

立体化するのが得意な人は図面を書くし

裁縫好きは、とにかく作品にしてみたい

裁縫で採点される学期の家庭科で過去最低点を打ち出した私が裁縫の授業を例に例えるのは如何なものかとは思いつつ、

つまり、人それぞれ得手不得手があって、得意分野に専念する方がストレスフリーなのは誰でもわかる話。

だから、ストレスフリーな分野=自分にしか出来ない事と認識しても良い

自分でもできる事

例えば料理。

自分でしなくても、少し歩けばご飯屋さんはあるし、もう少し歩けば総菜屋さんやテイクアウト、在宅でもウーバーイーツを含め宅配で食事を賄えるしキッチンを使わなくても食事に困らないこの時勢。

それでも料理に手間をかける必要性や理念があれば料理はする。

料理するのが必然ではないって意見だってあるし、

家庭の味は必須だって意見もある中

それでもキッチンに毎日立つ必要があるのか?

私の答えは

「やりたければ、やれば良い」「やる必要はないけれど」「気力があればやれば良い」

後ろ向きな心持ちで調理された料理を食べる苦痛は知っているし、そんな食事が美味ではない。

心の余裕のある時、人が調理すれば良いし、そんな人間が居ないのであれば

行きつけのおばんざい屋さんを見つけておく方が、よっぽど愛の味を知れる。

けど、

自分にでもできる事だと自分が前向きであれば取り組めば良い。

要するに心持ち

後ろ向きな気持ちや世間体からくる「やらねば」発動で出来ることを増やすのは得策ではないけれど

「やってみたいな」「出来るようになりたいな」始動は素晴らしい動機だと思うの。

思うって濁したのは

「出来るようになれば誰かの評価がもらえるかな」

を含むと全て無効。人の評価のために始めるのではなく

そうである自分が心地よいかどうか、そうである自分が自分らしいか

その基準で判断したほうが健全に物は運ぶ。

経験は無駄にはならぬが

自分は何に力を注ぐのが心地よいのか?

全ての判断基準をそこにすると、自己中認定は確実に頂けるんだけど

目の前の課題から逃げるために他に配慮してるつもりで逃げていたり

本当は向き合う必要のある事よりポップな事柄に気を取られていたほうが世間的にベターだと判断するのは

めちゃ危険

自分の時間は誰でもウサギでもミミズでも伯爵でも総理大臣でも1日24時間。

機嫌が悪かろうが体調不良だろうが、関係ないから倒れてる時間は勿体無いし

天気や気温が気に食わなくたって1日は24時間。

その時間は今生きている生物に平等に与えられているから、今何してるのかの経験は無駄にはならないけれど

本当にやるべきことの手を止めてでも、それをしないといけないのか?

を本質的に見る力があると、何をしたら良いかは分かるはずで。

無駄はない

とは言え、自分の存在意義に気付いた時に

「全て無駄はなかった」と気づくから、やれるだけのことを吸収して

自分のものにすれば良いとは思う。それが自分にしか出来ない事かもしれないし。

それが正しいかどうかを見極めるのは

自分が自分で生きている確証を自分が持っていれば、大丈夫なんじゃない?

ほとんどの人は、自分じゃない何かのために生きてるとは思うけど。

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